日常の隣り合わせにあるもの
追われていた。。日々の生活に。
5時半に起きて、ラグ男さんとキュリ王のお弁当を作る。
家事を済ませ、畑に行く。インゲン&きゅうり祭りが始まっており頻繁に収穫、除草をしないと手に負えない事になる。
3日に一度の収穫で、インゲンだけでも、毎回スーパーのビニール袋がいっぱいになる。その使い道を修行中なのだ。
「一つの野菜を色々な形で食べ尽くす。」これはあまり経験したことがなく、毎日、野菜のレシピと「にらめっこ」だ。とはいえ、楽しくてありがたい作業なのだが。
献立が決まり料理も終盤。「ふーっつ。ゆっくりコーヒーが飲みたい。。」
ぼーっとコーヒーの香りを妄想していた。
そんな時、キュリ王が背後から声をかけてきた。
「お母さん、今日は沖縄慰霊の日だよ。」
愉快な友達
キュリ王の学校はちょっとユニークで、寮もあり、全国各地から生徒が集まる。
コロナ禍では、それぞれが自宅に戻りオンラインで授業を受けていたので、授業の様子を垣間見ることが出来て面白かった。
多くの生徒が画面をオフにして授業を受ける中(大丈夫なのか!?😅)きちんと画面をオンにして授業を受けている生徒くんがいる。
「すごいね、リモートでもちゃんと授業を受けるんだね。」と感心していると
「いや、そうでもないよ😁」とキュリ王。
先生がその生徒くんに「○○!!」と何度声をかけても返答がない、なんて事があるそうで。
「ごめん。ノイズキャンセリングしてた・・。」彼の耳に流れていたのは、心地良い音楽。
先生の声は見事にノイズキャンセリングされていた。。
ノイズじゃないですよ・・・。先生の声は😅
一人静かに・・・
今は、コロナの感染も落ち着いて、寮生も学校に戻り、通常の生活を取り戻している。
前述のユニークな友達も、毎日、変わらず寮と学校の行き来をしている。
そんな彼に異変があったのは、3時間目と4時間目の間の休み時間だったそうだ。
ベランダに出て、じっとして、動かない。
「○○、どうしたんだろう?大丈夫かな。」先生も心配されていたという。
戻ってきた友達に声をかけると彼はこう答えた。
「今日は、沖縄慰霊の日だよ。」
「謙虚」に学ぼうと誓う
胸が締め付けられた。
広島や長崎、沖縄にも心を寄せ、資料館へも足を運び学んでいる、つもりだった。
でも、実際は、日々の生活、家族と暮らすこと、食べ物が豊かにあることの有り難さを忘れ、何も考えずに毎日をやり過ごしてしまう。人生は一回きりだというのに。
いつもはおふざけしたり、自由に過ごしている一人の男子高校生が、休み時間を満喫している仲間から離れ、一人静かに祈りを捧げている。
その姿から、彼が育った景色を垣間見る事ができた、気がした。
沖縄の方々にとって、「慰霊の日」は、私たちの想像を遥かに超える意識の高さで、家族や地域の方々と共に祈りを捧げる日。
どこにいてもそれが自然にできてしまうほど、生活の中に「当たり前」にある日常なのではないか。と感じた。
同じ国に住んでいるのに、何だかごめんなさい。という気持ちになった。
うっかりしていると、終戦記念日もテレビの中継があるから思い出す、ということがよくある。
沖縄慰霊の日も、テレビをつけていれば、それなりに思い出して祈りを捧げていたかもしれない。
でも、そんな祈りは何だか付け焼き刃のようで、恥ずかしくなった。
私は今回のエピソードのおかげで、「6月23日」を忘れないだろう。
大切なのは、情報を与えられるのではなく、自ら関心を持ち、寄り添い、きちんと心を寄せることだ。
普通に幸せに暮らしていた人々が、突然、食糧も棲家も家族も、命も奪われ「当たり前」だった日常が奪われていく。
戦争を仕掛ける人が悪いのだ。
そう思ってしまうのは、簡単だ。
でも、本当にそうだろうか。
自分に与えられているものに感謝を忘れ、いつしか平和な毎日を「当たり前」と思い、周囲で困っている人がいても「大変ねえ。」と簡単に見過ごす。
日常を奪ってしまうのは、そんな、私たちの少し歪んだ「当たり前」の姿。心の有り様なのかもしれない。
毎日の小さな「無関心」という、溜まりに溜まりに溜まった心の汚れが「悪いもの」をグッと引き寄せてしまうのかもしれない。
今回の出来事も、先生や仲間達が友達の異変に関心を寄せなければ、彼は静かに祈りを終え、何事もなかったように席に戻ったのだろう。
キュリ王の耳に静かな祈りのメッセージが届くこともなく、私が沖縄や平和のことに改めて関心を向けることもなかったかもしれない。
「今ここ」にメッセージが来たことに、大切な意味がある。
自分にできる小さな事を積んでいこう。そう、心に誓う。
周囲の人にきちんと心を寄せよう。困っている人がいたら声をかけよう。
そして、祈ろう。
夏休みに訪れた広島の原爆死没者慰霊碑に書かれていたメッセージをもう一度。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」